(8-23-98)
いつかは打ち切られるであろうと思ってはいましたが、7月1日を最後に彼らは 我が家に近寄らなくなりました。基本的に週1回のペースで本年2月より始めた「聖 書研究」でしたが、半年で終ってしまい、今では少し寂しさを感じています。(少な くとも最後通告くらいはしてほしかった) わずか半年足らずの期間でしたが、この間の総括として感じたことを述べていきた いと思います。(尚、私は、聖書とは20年来の付き合いがありますが、基本的には キリスト教に懐疑的・批判的立場です) 1 年代認識 エルサレム崩壊、新約文書の著作年代等 2 教義・本文解釈 三位一体、血の教え、1914年等 3 新約文書間の矛盾 マタイ2章とルカ2章のナザレの位置づけ、彼らとヨハネの旧約理解。イエスは いつ逮捕され、いつ処刑されたのか。逮捕の時ローマ兵はいたのかいなかったのか。 等々。 以上3点に関しては、自らの教義に頑強にしがみつくあまり、平行線をたどるこ とが多かった。曰く「私の学習、理解が足りないために反論できないだけであって、 統治体の教えは絶対的に正しいのです。聖書に矛盾はありません。なぜならそれは神 の霊感によって書かれたものであるからです」 4 正典としての聖書 「聖書全体は神の霊感を受けたもので有益です」(ものみの塔聖書冊子協会) 「旧新約聖書は、神の霊感により成り、…」(日本基督教団信仰告白) 「旧、新約聖書66巻は、すべて神の霊感によって記された誤りのない神のことばで あって、…」(日本同盟基督教団信仰告白) これはカトリックにもプロテスタントにも当てはまることですが、聖書を正典と して読むがために、そこに書かれている事柄を正確に理解しない。新約文書間の矛盾 を矛盾として捉えられない。「それは不合理なる故に信じるべきである」(テルトゥ リアヌス)と。 5 新約正典27書 新約はなぜ27書なのか。何故27書に限定されたのか。どういう過程で27書 になったのか。教父たちの認識としてはどうだったのか。(対マルキオン、対グノー シス主義等) 「神の霊感を受けていたので、現代まで受け継がれてきたのであって、他の文書 (外典)はそうではなかったので、歴史と共に消滅っしていった」 6 なぜ「エホバの証人」なのか 本質的なところは村本さんも何度か述べておられますが、彼らはなぜ「証人」に 取り込まれたのか。彼らの心の隙間にいかにして「証人」が入り込んでいったのか。 これこそが最も重要な事であり、これを切開していくことによって、ある種の展望が 開けてくるのではないでしょうか。 私もい幾度となく、この質問を投げかけてみたのですが、あたりさわりのない答 が返ってきただけで、本質的なものは聞き出すことができませんでした。しかしこれ は当然といえば当然のことで、数回の対話の中からその人の内面を引き出せるとは 思っておりません。誠実な対話を根気強く続けていき、互角の信頼関係を作り上げて いく中で出てくるものであると思っております。その意味からしても、対話を打ち切 られたということは、私にとって非常に残念なことでした。(私としては、かなり気 を遣い言葉を選んで話してきたつもりですが…かといって迎合するわけにもいかず。 難しいところです) では宗教=神信仰とはいったい何でしょうか。 人間が何らかの不安や弱さ(政治的、経済的、心理的、肉体的)を感じるとき、 何か頼るものを見出さないと不安でやりきれないという意識を持たされ、いろいろ捜 し求め、結果として宗教に辿り着く。本来は、その不安や弱さに抗して立ち上がり、 主体的に変革していかなければならないのに、宗教に救いを求めたがために、本質的 な矛盾に対して目をつむり、あるいは目をそらし、ともかく意識としてはそれで安心 する。 ある人にとってそれが「エホバの証人」であったり、「統一協会」であったり、 「幸福の科学」であったり、あるいは「創価学会」だったりする。 そして、「エホバの証人」からうまく離脱できたとしても「聖書」の呪縛からは 解放されることなく、結果、それ以外のキリスト教会に乗り換えるだけに終ってしま い、相変わらず矛盾に対して目をそらす。 勘違いしないでほしいのですが、私は何も「聖書」を全否定しているわけではあ りません(もしそうであるなら、とっくに聖書とは縁を切っています)。優れた文書 だと思っています。ただ「聖書」を正典として読むことの危険性を問題にしているの です。そこから出てくる護教論的屁理屈。自派に都合のいいような我田引水的解釈を 問題にしているのです。そのレベルにおいては「エホバの証人」も「伝統的キリスト 教」も私にとっては同じようなものなのです。 大雑把な文書になってしまいましたが、私が「エホバの証人」と対話をするにあ たってのスタンスは以上のようなことでした。残念ながら一方的に打ち切られてしま いましたが、今度はこちらの方から何らかの形で彼らにアプローチしていきたいと 思っています。 情報センターの記事も、これからも参考にさせていただきたいと思っておりますの で、村本さんも健康には十分留意してこれからも頑張って下さい。
《編集者より》
エホバの証人が「研究生」を取る時、表には出さなくとも常に頭にあるのは、「この人間を『真理』に導けるか」、普通の人間の言語に翻訳すれば、「この人間をわれわれの団体に引き付けられるか」の一点です。その研究生がどんなに誠実で熱心であろうと、もしその言動が「進歩」を見せなければ、つまり回を重ねるごとに組織に惹かれている様子が見られなければ、約6ヶ月を限度に打ち切られます。彼らは批判ばかりして、組織に入ってくる見込みのない研究生は早いうちに見捨てて、別の疑いを持たないような研究生により時間を取るように指示されているのです。従ってあなたの上に書かれたようなやり取りから見れば、一方的に打ち切られるのもごく当たり前と言えるでしょう。
あなたの宗教観、聖書観には一理あると思います。問題の根底にあるのは、聖書という文書と、個人団体が作り上げた聖書の解釈とが、いつのまにか区別されなくなって論じられている所に問題があると、私は思います。「聖書にこう書いてあるから云々」と言う時、エホバの証人を含めて、大部分の人は「私たちの解釈によれば聖書にこう書いてあるから云々」という大事な前提を言わないし、考えないのです。その結果、聖書の名において、あるいは神とキリストの名において、人は別の人を攻撃し、唯我独尊となり、戦争さえ始めるのでしょう。しかし、ものみの塔を含めたこれらの団体の行っていることは、聖書、エホバ、キリストの名の元に、自分たちの組織が作り上げた解釈と教義を押し通しているに過ぎないのです。私は聖書に基づく神への信仰はあくまで個人個人の問題であり、もし団体や組織が存在するとすれば、それは個人の自由で自発的な集合から形成されるものでなければならないと思っています。